エッセイ
空が動く日 ― 宮島沼、渡り鳥の春
北海道
1、白い沼で見ていた、まだ見ぬ景色
その沼を初めて訪れたとき、世界にはまだ色がなかった。
「ニルスのふしぎな旅」をテーマにこの番組で語ったのは、3月の終わりから4月上旬にかけてのことだ。けれどその物語の種を蒔いた取材と収録は、さらに1か月ほど遡る、冬の底で行われていた。宮島沼は、雪と氷という一枚の分厚い布に覆われ、音という音をすべて吸い込んでしまったかのように静まり返っていた。地平線までまっすぐに広がる白。風は刃のように頬を切り、空気そのものが凍りついているのではないかと思うほどだった。
ここに、春が来れば数万羽ものガンが押し寄せ、空という空を埋め尽くすのだという。その話を、私はまるで神話のように聞いた。目の前にあるのは、ただ沈黙する白い平原。命の気配は、どこにも見当たらない。
けれど不思議なことに、私はその沈黙の中に立ちながら、耳の奥で、まだ訪れていない音を聴いていた。何万枚もの翼が空気を打つ音。重なり合う鳴き声が、まるで巨大な合唱のように空を満たしていく音。目には見えない春の景色が、雪原の向こうに、幻のように立ち上がっていたのだ。私はそのとき、まだ見ぬ光景に、すでに恋をしていたのかもしれない。
2、物語の中の空、現実の空
思えば、この憧れの始まりは、はるか昔にさかのぼる。
「ニルスのふしぎな旅」という物語の中で、幼い私は、ガンの群れとともに空を渡るという感覚を初めて知った。テレビの画面越しに見上げた、あの果てしない青。少年ニルスが、ガチョウのモルテンの背にしがみつきながら、雲の間を縫って飛んでいく。あの浮遊感は、子ども心に、この世界にはもうひとつ別の次元があるのだと教えてくれた。
けれど現実の世界で、本物の渡り鳥たちが、どのように空を渡り、どのように集まり、どのように互いの気配を読み合い、そしてどのように一斉にその身を空へ投げ出すのか――それを、自分自身の肌で、自分自身の耳で、確かめてみたい。その渇望は、雪解けが進み、風が少しずつ甘さを帯びるごとに、抑えがたいほど膨れ上がっていった。
各地で小鳥たちのさえずりが賑やかさを増し始めると、私はもう、いてもたってもいられなかった。頭の中は、北へ向かうガンの群れのことでいっぱいだった。そして4月下旬、私はふたたび宮島沼へと車を走らせた。
3、早すぎた春
現地に降り立った瞬間、私はまず、時間に置き去りにされたことを知る。
私が訪れたのは4月28日。例年であれば、ちょうど見頃を迎える頃合いだと聞いていた。しかし今年は、季節そのものが足を速めていた。雪解けが例年より早く進み、ガンの群れもまた、北への旅を早めていたのだ。今年のピークは、なんと3月末。しかも数そのものも少なく、3万羽ほどにとどまったという。私が息を切らして駆けつけた4月28日には、その大半がすでに天の彼方へと旅立ってしまい、この地に残っていたのは、わずか5,000羽から6,000羽ほどだった。
宮島沼水鳥・湿地センターの方にその事情を話すと、その方は柔らかく笑って言った。「気にすることはないですよ」。放送局などから、あの季節の風物詩――空を覆い尽くすほどの大群――を撮影したいという問い合わせがよく来るのだという。そして「今は5,000、6,000羽ほどになってしまった」と伝えると、多くの人ががっかりして諦めてしまうのだそうだ。「もう迫力ある映像は撮れない」と。
けれどその方は、迷いなく、こう言い切った。
「そんなことは、まったくないんですよ」
私はその言葉の意味を、その日の夕暮れから翌朝にかけて、身体の芯まで震わせながら思い知ることになる。
4、畑の食事、そして瞬間の飛翔
その日、私が最初に狙っていたのは、餌場から沼へと帰ってくる群れの姿だった。夕方4時、宮島沼に降り立ったが、日はまだ高く、光はどこまでも明るく、ガンたちが大きく動き出すには早すぎる時刻だった。気温は4度。春という名の仮面をかぶった、まだ冬の芯を残した風が吹き抜け、じっと立っているだけで、体の芯から冷えが這い上がってくる。
温かい飲み物を求めて、セイコーマートへ向けて車を走らせた、その途上だった。
道の脇に広がる畑――そこに、ガンの群れがいた。思いがけない邂逅だった。餌をついばむガンたち。沼の水面に浮かぶ姿とはまるで違う、大地にしっかりと足をつけた渡り鳥の姿。長い旅の途上にある鳥たちが、広い畑の上で、絶え間なくおしゃべりを交わしながら、夢中で餌をついばんでいる。いったい何を語り合っているのだろう。もし鳥たちの言葉がわかったなら、どれほど豊かな世界が開けるだろうか。そんな想像だけで、胸の奥が温かくなるような時間だった。
けれど、しばらく見入っていると、何かの合図があったのだろう――群れが、一斉に、爆ぜるように飛び立った。
その瞬間を、私は忘れることができない。ふわり、ではない。もっと鋭く、もっと荒々しく、まるで大地そのものが裂け、その裂け目から群れが空へと噴き上がっていくような、そんな飛翔だった。羽音が幾重にも重なり合い、空気が悲鳴のように震え、ガンたちはもはや個々の鳥ではなく、ひとつの巨大な生き物、ひとつの意志を持った雲となって、次の餌場へと流れていった。
私はその場に立ち尽くしたまま、胸の高鳴りを抑えられずにいた。これが、ほんの一部の群れが見せた、ささやかな移動に過ぎないのだとしたら――この群れも、そしてほかの無数の群れも、日が暮れて宮島沼へと一斉に帰ってくるとき、そこにはいったい、どれほどの壮大な光景が広がるというのだろう。期待は、もはや抑えの効かない熱となって、私の中で燃え始めていた。
5、焼ける空に、V字が戻る
セイコーマートで温かい飲み物を手に入れ、凍えた体を少しずつほどきながら、私はふたたび宮島沼へと戻った。ガンたちの帰還を待つために。
けれど、時間はただ過ぎていくばかりだった。待っても、待っても、群れの気配は感じられない。太陽が、じりじりと西へと傾いていく。もしかすると、先ほど畑で出会ったガンたちは、宮島沼とは別の沼をねぐらとする群れだったのかもしれない――そんな不安が、静かに胸をよぎった。
やがて陽は完全に沈み、空は燃えるような茜色に染まっていった。まるで空そのものが、静かに息を引き取っていくかのような、深く、切ない色だった。今日はもう、駄目なのだろうか。そろそろ諦めるべきなのだろうか。そう思いかけた、まさにその刹那だった。
――帰ってきたのだ。
V字の編隊を描いて、ガンたちが空の彼方から姿を現した。その光景は、私の想像を軽々と超えていた。もっとふんわりと、もっとゆったりと、羽根のように舞い降りてくるものだと思い込んでいた。けれど現実はまるで違った。恐ろしいほどに速い。空気を切り裂き、迷いのない意志を持って、群れはまっすぐに宮島沼へと突き進んでくる。まずその速度に、私は圧倒された。
そして、耳を貫く甲高い鳴き声。ガア、ガアと幾重にも重なり合う声が、遠くの空から、次第に、確実に近づいてくる。その声は、空の高さと距離を、まざまざと感じさせながら、少しずつ沼の水面へと降りてくる。一群れ、また一群れと帰ってくるたびに、宮島沼の水面は、まるで墨を流し込まれたかのように、ガンたちの姿で黒く塗りつぶされていった。
夕陽を背に浮かび上がる無数のシルエット。果てしなく広い空。生きた雲のように形を変え続ける群れ。そのすべてが渾然一体となって、まるで巨大な叙事詩の一場面のように、私の目の前で繰り広げられていた。ああ、私は今、幼い日にテレビの前で見上げていたあの空の続きを、この地上から、この肉眼で、見上げているのだ――そう思った瞬間、胸の奥から込み上げてくるものがあった。
空が赤く燃え、そこへV字の編隊で無数の命が帰ってくる。あの夕景は、ただ美しいという言葉だけでは到底足りない。それは、物語という名の扉が、もう一度、静かに、しかし確かに開かれた時間だった。
6、早朝、もぬけの殻
ガンたちがねぐらに身を沈め、沼が再び静寂を取り戻した頃、私たちもその日の宿へと引き上げた。翌朝は、夜明け前、ねぐらから餌場へ飛び立つ瞬間を見届けよう。そう心に決め、その夜は早々に眠りについた。
翌朝、ホテルを出たのは3時過ぎ。宮島沼まではおよそ1時間の道のり。4時到着を目指して車を走らせたが、到着したのはそれより30分遅れ、4時半を回った頃だった。
そして沼に足を踏み入れた瞬間、私は言葉を失って立ち尽くした。
ガンが、一羽もいなかった。
がらんとした水面。風の音だけが、そこにあった。ああ、もう飛び立ってしまったのか。たった30分の差が、これほどまでに大きな隔たりを生むとは。自然というものは、決して人間の都合に合わせてはくれない――そのことを、私は骨身に染みて思い知らされた。
けれどそのとき、前日にセンターの方が言っていた言葉が、記憶の底から浮かび上がってきた。「午前中、9時半ごろに、一旦休みに戻ってくるかもしれませんよ」。その一縷の望みに賭け、私はいったんその場を離れることにした。
7、群れの中の静寂、そして一斉の羽音
時間をあけ、9時を過ぎた頃、あらためて宮島沼へ足を運んだ。すると今度は、確かに戻っていた。沼の水面という水面が、隙間なくガンたちで埋め尽くされている。ようやく、心ゆくまで群れを観察できる時間が訪れたのだ。
宮島沼には数種の鳥がいるようだったが、そのほとんどはマガンだった。羽を休め、水面に漂いながらも、彼らは絶え間なくガアガアと鳴き交わしている。せっかくの休息を邪魔するようで気が引けたが、私は勝手にスマートフォンのカメラを構え、今か今かとその瞬間を待ち構えた。いったいどれほど休むのか、次に飛び立つのはいつなのか――目の前に浮かぶ一羽一羽に尋ねたくてたまらなかったが、私はニルスではない。彼らの言葉は、私には届かない。
1時間ほど過ぎただろうか。突然、6,000羽のマガンが、示し合わせたように一斉に飛び立った。どうやら天敵であるワシに、何らかの動きがあったらしい。
その瞬間の音を、私は生涯忘れないだろう。全身の毛が逆立つほどの響きだった。爽快とも、壮大とも言い難い。重厚でありながら、なぜか軽やかさすら感じさせる、矛盾を孕んだ音の塊。これは、言葉でどれほど飾り立てても、伝えきれるものではない。実際に宮島沼に立ち、その耳で、その肌で受け止めていただくよりほかにない。ただ、この音に出会えただけで、私は音楽家として、生涯の財産を手に入れたと確信している。この感覚は、きっとこれからの演奏の中に、静かに息づいていくはずだ。
一斉に舞い上がった群れは、上空を大きく旋回したのち、ふたたび宮島沼の水面へと降りていった。休息は、まだ終わっていないようだった。
8、トビとワシ、そして見えない気配
そのとき、ふと視線を空へ向けると、上空に大きな鳥の影があった。ガンたちの天敵、ワシだろうか。先ほどの一斉飛翔を引き起こした張本人は、この鳥なのだろうか――そう思いながら、大きく風を切るその優雅な姿を見つめていた。
その鳥は上空をゆっくりと旋回しながら、下に広がる群れの様子をうかがっているように見えた。時おり水面へと急降下し、ガンに襲いかかるかのような動きすら見せる。けれど、当のガンたちは、拍子抜けするほど無関心だった。
あとで聞けば、それはトビだったという。なるほど、ガンたちにとっては、さほど恐れるに値しない相手だったのだろう。トビにしてみれば、いささか気の毒な扱いではある。
しかしセンターの方によれば、本物のワシはもっとずっと大きく、その姿が現れれば、ガンたちは瞬時に、しかも一糸乱れず反応するのだという。私はまったく気づかなかったが、実はそのとき、森の茂みの奥に、一羽のワシが息をひそめていたのだそうだ。もしかすると先ほどの一斉飛翔は、私の目には見えなかったその気配を、群れがいち早く感じ取った結果だったのかもしれない。
9、6,000の翼が起こす波
そして、忘れがたい瞬間が訪れた。
およそ6,000羽のガンたちが、何かの危険を感じ取ったのだろう、まるで一つの生命体であるかのように、見事に一斉に飛び立ったのだ。その音の凄まじさは、先ほどとはまるで別物だった。
今度は瞬間的な炸裂ではなく、群れがうねりながら、少しずつ、しかし確実に空へと解き放たれていく。羽ばたきの音が、幾重もの波紋となって、四方八方へと広がっていった。私の頭上を、無数の翼が次々と越えていく。空気そのものが持ち上がり、あたり一帯の空間が震え、大地の上を目に見えない津波が走り抜けていくような、そんな感覚だった。何千枚もの翼が、寸分の狂いもなく同時に空を打つ――そのとき生まれる音の圧力を、私は生まれて初めて全身で受け止めた。呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
同時に、私はその危険察知能力の精緻さに、心の底から震えていた。人間には見えないものを、彼らは見ているのかもしれない。人間には聞こえないものを、彼らは聞いているのかもしれない。あるいは、皮膚のどこかで、静かに、確かに、感じ取っているのかもしれない。
鳥だけではない。魚もまた、群れをなす生きものたちは、恐ろしいほど正確に、一瞬にして全員が向きを変え、方角を変える。そこには、人間がいつしか置き忘れてきてしまった感覚の領域が、今もなお息づいているように、私には思えてならなかった。
10、人間が手放した感覚
これは、あくまで私個人の想像に過ぎない。けれど私は、彼らが人間には決して感じ取れない、いわば「宇宙波」とでも呼ぶべき何かを、静かに受信しているのではないかと思うのだ。
人間は、知恵という贈り物と引き換えに、動物的な感覚の多くを手放してきた。人間がはっきりと感じ取れる波動は、基本的には音波だけである。電波でさえ、機械という補助がなければ捉えることができない。耳に届く音という波動、その強い振動だけは肌でも感じ取れるが、それもほとんどは耳が担っている仕事だ。しかし宇宙という空間には、音は伝わらない。そこには、それとは異なる、もっと無数の、名もない波動が満ちているはずだ。人間には決して受け取ることのできないそれらの波を、鳥や魚たちは、ごく当たり前のこととして受信しているのではないか――私にはそう思えてならない。
もちろんこれは科学的な断定ではない。あの場に立った私が、ただ思い描いた、ひとつのイメージに過ぎない。ただ、科学もまた、鳥たちが地球の磁場を頼りに飛んでいる可能性や、人間とはまったく異なる感覚の仕組みを、少しずつ解き明かしつつあるのだという。それでも、宮島沼であの一斉飛翔を目撃した私は、それだけではとても言い尽くせない何かを、確かに全身で感じ取っていた。
説明できることの、そのさらに先。旅を続けていると、ただ「そう感じた」としか言いようのない瞬間に出会うことがある。宮島沼で見た、あの一斉飛翔もまた、まぎれもなく、そういう時間だった。
11、旅は感覚をひらくこと
ニルスの物語を見つめていた幼い私は、ガチョウのモルテンの背に乗って空を渡る少年の姿に、心の底から憧れた。あのころの私は、人間の世界だけがこの世界のすべてではないということを、まだうまく言葉にはできなくても、どこか体の奥深くで、確かに感じ取っていたのだと思う。そして半世紀の時を経て、私は宮島沼で、物語の中の存在ではない、現実のガンの群れを前に、もう一度、あのころの感覚を鮮やかに思い出すことになった。
人間は、知恵という光を授けられた代わりに、動物的な感覚の一部を、暗闇の中へと置き去りにしてきたのかもしれない。便利さを積み重ね、あらゆるものを数値へと変換し、説明できるものの領域を広げ続けてきた。けれどその一方で、風のわずかな変化や、空にかすかに滲む気配や、何かが起こる直前の、ほんの微かな揺らぎを受け取る力を、少しずつ、静かに鈍らせてきたのかもしれない。説明のつかないものは信じられない――その姿勢こそが、人間の感覚を眠らせてきた張本人なのだと、私は思う。
だからこそ、旅に出ることには意味があるのだと思う。旅とは、ただ遠くへ移動することではない。旅とは、閉じてしまった自分の感覚を、少しずつ、丁寧にひらいていく行為なのだ。街の喧噪の中では聞こえなかった音が、耳に届くようになる。見落としていた光が、ふいに視界に飛び込んでくる。急ぎ足の日常では気づけなかった変化に、ふと立ち止まることができる。そのとき人は、この世界を、これまでより少しだけ深く、豊かに感じ取れるようになるのかもしれない。
宮島沼は、渡り鳥たちにとっては、遥かな旅路のほんのひとときの中継地に過ぎない。けれど、その一瞬の立ち寄りが刻む光景は、見る者の心の奥に、生涯消えることのない風景として焼きついていく。鳥たちは、北へ向かうために、ここで羽を休め、食べ、力を蓄え、そしてまた、迷いなく空へと飛び立っていく。人生にも、きっとそういう場所があるのだと思う。ずっと留まり続ける場所ではないけれど、確かに自分を休ませ、次へと歩き出す力を静かに受け取る場所――宮島沼の水面を眺めながら、私はそんなことを、幾度も、幾度も考えていた。
あの燃えるような夕焼けの空。V字を描いて帰ってくる無数の命。沼の水面を塗りつぶした、数えきれない羽の群れ。そして、一斉に飛び立った瞬間、あたり一帯の空気を根底から震わせた、あの圧倒的な音――それらは、ただの自然の景色というだけの存在ではなかった。それは私にとって、人間という小さな枠の外側に広がる、途方もなく大きな世界の存在を、もう一度、体の芯から思い出させてくれる出来事だった。
ニルスが見上げていたあの空を、私はこの日、地上から見上げていた。そしてその空の下で、人間には決して聞こえない声や、感じ取ることのできない波が、確かにこの世界には満ちているのではないかと、そう思わずにはいられなかった。
春の宮島沼。そこは渡り鳥たちの中継地であると同時に、人間が置き去りにしてきた感覚のかけらを、ほんの少しだけ、そっと手渡してくれる場所でもあった。